Home Again

4LDKマンションのインテリア変遷キロク

素敵なお宅訪問に思う

起床7時10分。昨晩は12時過ぎに帰宅したオットと話し込んでいて,すっかり遅くなってしまった。お陰さまで朝寝坊。罪の意識を感じたのか,いつもはコーヒーを入れるだけで,のんびり煙草を吹かしながら詰め碁集や新聞を読むだけの彼が,朝食を作ってくれている!といってもトースト焼いて昨日残った温野菜サラダを盛りつけてるだけなんだけど。嬉しい。8時半の新幹線で出張とのことで,7時40分には出て行ってしまった。

昨日で娘の給食は終了。20日の終業式まで,11時半お迎え。その上明後日までに「幼稚園の思い出」を360字で書かなければならない。「大きくなって文集を開いたときに,おうちの方も子供も思い出を懐かしんだり,心の糧となるような内容」だと。こりゃ荷が重いですぞぉ。

夫と話したのは,社内における人材育成の話や昨日おじゃましたJ子さん宅の話など。J子さん夫婦はともにオオサカ人で盛岡に来て7年くらい。中学生の息子さんがひとり。ご主人は転勤族だが,息子さんの進学や,何より家族みんなが盛岡を大変気に入ったことなどからこの地に定住する決断をしたのだとか。ご夫婦とも長男長女(しかも一人っ子同士?)なので,ご両親が体を壊されたら盛岡に引き取ることも考えてるという。

しかし家は高台の造成地に建っていて,各家ごとに15~20メートルくらいの急な階段を登らなければ玄関に辿り着けない造り。30代の私でも,普段ちょっと大きな買い物をしたら大変だろうなと感じるくらいの階段。お年寄りがここを上り下りするのはちょっと想像できなかった。そんな話をオットにしたところ,俺らはいろいろ見過ぎてしまったのかもしれない,普通の人はそんなことまで考えないんだよ,だって。

オットの母は大変パワフルな女性だったが,20年ほど前に突然,原因不明の病気で足がしびれ始め,杖なしでは歩けない体になってしまった。筆舌に尽くしがたいという痛みが始終あって,病気をしてからは夜もまともに寝られない毎日だったという。彼女は病気を患って以来,自宅の2階に上がったことはないと言った。結婚してから8年余りのお付き合いしかなかったが,年を取り体が不自由になったときの暮らしというものを目の当たりにして,相当な衝撃を感じた。自宅を建てるのなら,彼女が快適に暮らせるような家というのを常に念頭に入れて考えるようになった。それは義母のためだけではなく,いつ突然オットや自分がそういう体になるやもしれないと考えるようになったからだ。あの義母の生活を見てしまった以上,J子さん宅のような家を建てることは私たちにはできない。それはしょうがないぜ,なんて話を夫婦でつらつらと。高台から見る岩手山は,とても雄大で本当に素敵だったけど。

そんな義母も4年前の昨日,ガンで亡くなった。両親をガンで失った直後の私に,彼女はガンで亡くなる人が羨ましいと言った。いつも優しく大好きな義母だったが,その時の言葉だけはどうしても受け入れられなかった。しかしその彼女自身がガンを患い亡くなる直前,これでやっと楽になれると言った。そのとき初めて,彼女の長年の痛みというものがどれほど辛かったのかということが実感できたような気がする。痛みに耐える生活というのはそれほどまでに孤独な闘いだったのだなと。そんな彼女の15年余りの生活も,すぐ街中に出られる便の良いマンション,あるいは逆に郊外で広々とした平屋造りのバリアフリーの家なら,行動範囲がもっと広がったのになぁなんてね。もちろん,家を移ろうということは常に話題に上っていたけれど,年を取り体が不自由になると,そのような大きな行動を起すこと自体がおっくうになり,不便かつ閉塞感を感じながらも現状維持のまま15年という結果になってしまったのだ。いろいろ物思うお宅訪問であった。

帰りの車で,結婚以来ずっとご主人のご両親と同居しているというN美さんが言った。子供三人育ててきて義理の両親には散々世話になってきた。彼らがいよいよ年を取ってきた今,今度は自分がそのお返しをしなくてはならないと思う。だけど,年を取るということは決してきれいなことではない。お互いが頑固になり,肉体も気力も衰えてきている。今まではまま上手くやってきたと思うけど,これからのことは本当に自信がないと。おそらく,N美さんもあの階段を見て思うところがあったに違いない。だけど二人ともそのことにはいっさい触れない。と同時に,出産も子育ても全部自分たちだけでやらざるを得なかった転勤族としては,N美さんに対しても何とも答えようがない。ただそうだね,と聞くだけ。でも,たぶんお互いに思ってることがわかっている。何だかこういうことが増えてきたなぁと感じる昨今である(やっぱ歳か~)。

本日の体重:現状維持(目標まであと2.6キロ),体脂肪23%