Home Again

4LDKマンションのインテリア変遷キロク

Rebecca Brown ”Excerpts from a Family Medical Dictionary” 58~113p -2 読了

レベッカ・ブラウンの母,バーバラ・ワイルドマン・ブラウンの逝き方は素晴らしい。夫との結婚生活は苦渋に満ちたものだったが,子供たちを育て上げたあとはニューメキシコの自宅で草花を育てながら自立して暮らしてきた。病に倒れたあとは,子供たち(息子と娘二人)を中心に兄弟姉妹が入れ替わり立ち替わり彼女を世話する。外科的な処置や化学療法が功を奏さなくなったあとも,ホスピスの医療スタッフの力を借りながら,子供たちが彼女を自宅で看取ろうとする。最後は本人の希望通り火葬に付され,大好きだった峡谷に遺灰を撒かれる。彼女がどういう宗教を信仰していたのかはわからないが,葬式は行われず墓もない。だが,きっと灰の撒かれた峡谷自体が母の墓として子供たちの記憶に残っていくのだろう。

私の母もバーバラと同じく'97年にガンで亡くなっただけに,読んでるうちにどうしても二人を比較してしまった。母の場合,外科的な処置は施されなかった(施しようがなかった)のだが,彼女はその後の化学療法を拒み,病院から退院を迫られることとなった。もう何もできませんから,ここにいてもしょうがないでしょうというわけだ。病状が一切改善されないまま病院を出されるなんて,その時まで信じられなかった。

結局,母は化学療法以外の「何か」,ホリスティック医学やら東洋医学の処置を求めて全国行脚し始めた。それが彼女の希望だったから,家族としてはそれを叶えてあげるしかなかったのだけど,最終的にはボロボロになって個人調達した救急車で埼玉から大阪まで運ばれる結果となった。私たち家族は,終末期の患者にとってホリスティックや東洋医学は何の役に立たないということを思い知った(事実,母の浮腫んだ脚に対する処置の酷さは目に余るものだったから)。その時は夫と妹が付き添った。今でも時々,夫はその時の辛さを溢すことがある。それは想像を絶する道行きだったろうし,そのことについては今も彼に深く感謝している。だが,私は母の全国行脚に付き添っていた最中に流産してしまい動けない状態だったし,父は商売の関係で身動きが取れなかったのだ。

母も最期は神戸のホスピスに移り,穏やかさを取り戻せたと思う。しかし,ホスピスというのは帰り道の用意されていない病院だし,お茶会等で親しくなった患者が毎日のように亡くなっていくというキツさがある。それでも,ホスピス待ちの間,入院していた老人病院や,意に沿わぬ化学療法を受け総合病院で亡くなることを思えば,良かったのだと信じたい。

自宅で商売をしている実家の状態では,バーバラのような最期はありえなかった。母や私たちにとってはそうするしかなかったのだと思いつつも,羨ましさは拭えない。