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4LDKマンションのインテリア変遷キロク

Paul Auster ”The Book of Illusions” 199~226p -11

昨日読んだSylviaの記述箇所で気にかかった点を補足。彼女は,--uneducated hick(田舎者),a semi-illiterate(文盲) vulgarian(俗物) who spoke in a blur(ぼやけた状態) of double negatives and mind-bending malapropisms(滑稽に誤用された言葉)--と評されているのだが,その根拠となる具体例を二つほど。

(1)BrahmsのString Sextet(六重奏) Number One in B flatを →sex関係の言葉と勘違い

(2)報酬の取り分について話している際,fisical(会計の) policyを →physical policyと勘違い

ま,かくいうHectorも独学で教養を身につけるまで,Socrates/ソクラテスとSophocles/ソフォクレスは同一人物だとか,George Eliot/ジョージ・エリオットは男だとか,The Divine Comedy/神曲はコメディだなどと思っていたそうだが。もちろん日本人のワタクシには,じぇんじぇんわかりましぇん。(´。`)

”The Book of Illusions”第6章の方は,スポットが再びZimmerとAlmaの元に戻り,改めてHectorとFriedaの話が続けられる。Friedaの遺産を元にTierra del Suenoの土地を買い,自宅を始め,電気・水道施設やら何もかも自分たちの手でゼロから作り上げていったそうな。Friedaは絵の仕事を,Hectorは園芸の仕事を続けながら幸せな生活を送っていたが,1938年に彼らの息子Thaddeus Spelling Ⅱが蜂に刺されて3歳で亡くなったのをきっかけに,誰にも見せず純粋に作るということだけを目的とした映画を撮り始める。その際呼び寄せられた,Kakeidoscope Pictures時代のカメラマンCharlie Grundが,唯一雇った女優Fayeと結ばれ,Almaが生まれたという次第。

その時作られた映画は14本。naked bodiesからurination/排尿やdefecation/排便までなんでもあり。だがそれに囚われているのではなく,あくまでストーリーに必要なものを隠さないというスタンスである。

Kafkaもやはり自分の死後,廃棄されることを前提に作品を書いていたが,その廃棄を託された友人Max Brodは,彼の遺志を実行に移すことができなかった。しかしHectorの作品は,Friedaによって確実に廃棄される。そのHectorが死に瀕している。とにかく急げ!というところで第6章終了。

第7章ではいよいよZimmerがHectorに対面する。土曜ワイド劇場が,ようやくAusterの作品らしくなってきた。